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パブロ・ピカソ


『アヴィニョンの娘たち』(1907年) ピカソ作



「一枚の絵は破壊の集積である」


――ピカソはこう記した。


前回のセザンヌ『台所のテーブル』にて、一つの絵画の中に複数の視点から見たものを描く手法が後のキュビズムにつながるきっかけとなったことを書いた。

キュビズムの最初の作品と言われる『アヴィニヨンの娘たち』。描かれている女性一人ひとりにいろんな試みが成されているのはそれぞれの顔を見ていけばわかりやすいが、中でも右下の女性。



彼女は顔の左右で描かれる視点が全く違うのだ。観者から見て左側の顔は正面を向き、右側半分は横を向いているところを捉えている。


そして、何よりも。右下の女性はどうやら「こちら」に背中を見せているようなのだ。顔は観者に向き、身体部分は背中を向けている。首を180度曲げているようなもので、解剖学的にはそんなことは有り得ない。


顔は前向き。身体は後ろ向き。


「複数の視点で描く」とはまさにこのことで、ピカソは例の女性の顔を正面から描き、その後移動して女性の身体を後ろから描いたことがわかるのだ。(顔と身体、ピカソがどちらを先に描いたのかは素人の私には判別できないが)


ここまではいいが、それではピカソがこの描き方をすることで何が可能になったか。


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〔つづきはこちら〕

ポール・セザンヌ


『台所のテーブル』(1889年頃) セザンヌ作


「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい。」


1900年前後にセザンヌが手紙に記した、たったこれだけの言葉が後の絵画史にどれほどの影響を及ぼしたことだろう。


ピカソ、ブラック、マティス、レジェ・・・後の巨匠はセザンヌを称え、彼の絵画を独自の方法で取り入れていった。


そして彼は「現代絵画の父」と呼ばれるようになった。


セザンヌはいわゆる印象派と呼ばれる画家で、一時期はモネやルノワールらと共に活動していた。しかし、何故彼だけが特別なのか。そのヒントは今回の絵の中にある。


セザンヌはブルジョワの裕福な家庭に育った。厳格な父の過剰な教育によってしつけられたせいか、彼は没するまで「人嫌い」となった。そんな彼にとっての転機は、印象派との出会いだ。

後に巨匠となる新進気鋭の画家たちと、「時間と光の移ろい」をひたすらに描き続けた。輪郭をぼかしながら「時間と光による変化そのもの」を描く、印象派特有の目線である。


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〔つづきはこちら(今回少し長いです)〕

トレンツ・リャド


『CARMEN BATIDOR』(1991年) リャド作


人物の顔から服装、背景まで。一見、何から何までディテールに凝った描写が緻密な絵に見える。しかし、よく目をこらすと写実的なのは顔のみで他の部分は、絵具でひっかいたように実に荒々しい。そのタッチの荒々しさに、観る人々は驚き、思わず息を呑む。

この荒々しいタッチにこそ、リャド特有の光の空間表現が凝縮されているのだ。

紹介するのは、母国スペインで「ベラスケスの再来」とも言われた20世紀絵画に珍しい「印象派」の巨匠である。

印象派とは、視たモノをできるだけ詳細に絵に「再現」するのではなく、光や大気が織りなす一瞬の時間を描く者の感じるままに「表現」する画家の一派である。パリで活躍した初期印象派といえば、クロード・モネやルノワールがその一角である。

リャドは1946年、その印象派の描写手法が誕生して80年ほど後にスペインに生まれた。

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フリードリヒ


『海辺の修道士』(1810年) フリードリヒ作


荒海、曇天、絶崖・・・何者も叶わぬ巨大な自然にたった一人の修道士が小さく佇むことによって壮大な風景画は壮大な宗教画へと生まれ変わる。

一見、何が描かれているのか判別しにくい絵画である。

なぜなら、絵の中に“モノ”があまりにも少ないのだ。

海、空、地・・・そして人ひとり。この修道士と思しき人も、もしかしたら犬かもしれない鳥かもしれない、そう思えるほどに対象としてはあまりにもちっぽけである。これだけ内容の乏しく見えがちな絵がなぜ荘厳な宗教画といえるのか。

それは、修道士が我々に背を向けているからである。見てわかるとおり、彼は絵の中で自然と向き合っている。彼が行っている行為は祈りなのか、それとも中指でも立てているのか。黒服を着た修道士という敬虔な立場を思い浮かべば、前者であることは間違いない。

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フィンセント・ファン・ゴッホ


『ゴーギャンの椅子』ゴッホ作

『ゴッホの椅子』ゴッホ作


あまりにも純粋な青年は、南仏アルルに芸術家たちのユートピアをつくろうとした・・・。


ゴッホ35歳の時、知り合いのあらゆる芸術家たちにアルルへの招待状を送った。

それに反応を示したのはゴーギャンだけだった。かといって、ゴーギャンも、ゴッホの手紙に心を打たれたのでも、純粋な芸術への熱意に燃えてアルルを訪れたわけでも、なかった。ゴッホの弟である画商テオに金銭的援助を受けており、彼は資金を得る代わりにやむを得ずゴッホとの共同生活を承諾しただけだった。

そして、アルルでの共同生活はわずか2カ月で終わりを迎えた。ゴッホにとってゴーギャンは最大の親友であると同時に、もっとも苦しみを与えられた人物であった。その結果が、有名な「耳切り事件」である。ゴーギャンとの口論の後、ゴッホは自らの右耳を切り落とし、精神病院へと送られる。ゴーギャンは逃げるように自分のアトリエと帰り、後に西洋文化に嫌気をさしてタヒチへと旅立つ・・・。

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