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『海辺の修道士』(1810年) フリードリヒ作
荒海、曇天、絶崖・・・何者も叶わぬ巨大な自然にたった一人の修道士が小さく佇むことによって壮大な風景画は壮大な宗教画へと生まれ変わる。
一見、何が描かれているのか判別しにくい絵画である。
なぜなら、絵の中に“モノ”があまりにも少ないのだ。
海、空、地・・・そして人ひとり。この修道士と思しき人も、もしかしたら犬かもしれない鳥かもしれない、そう思えるほどに対象としてはあまりにもちっぽけである。これだけ内容の乏しく見えがちな絵がなぜ荘厳な宗教画といえるのか。
それは、修道士が我々に背を向けているからである。見てわかるとおり、彼は絵の中で自然と向き合っている。彼が行っている行為は祈りなのか、それとも中指でも立てているのか。黒服を着た修道士という敬虔な立場を思い浮かべば、前者であることは間違いない。
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修道士は自然に祈っているのだ。あるいは我々に彼は祈っていると思わせる「ヒント」をフリードリヒは我々の目の前に置いて行っているのだ。
「小さい人間」と「大きな自然」、この対比の構図はフリードリヒ独特の宗教観を表している。自然に対する畏怖と、雲の向こう側に想像される神秘的な存在。自然そのものをいともたやすく擬人化してしまう中世的な描き方(海=ポセイドン、天=ゼウスなど)とは根本的に異なっている。
物語の想像をかきたてる構図をもって、彼はドイツのロマン派と呼ばれた。
我々に背を向け、自然と向き合う修道士は、寂寥感の漂う重々しい背景のなかで永遠と瞑想するのである。
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