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『台所のテーブル』(1889年頃) セザンヌ作
「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい。」
1900年前後にセザンヌが手紙に記した、たったこれだけの言葉が後の絵画史にどれほどの影響を及ぼしたことだろう。
ピカソ、ブラック、マティス、レジェ・・・後の巨匠はセザンヌを称え、彼の絵画を独自の方法で取り入れていった。
そして彼は「現代絵画の父」と呼ばれるようになった。
セザンヌはいわゆる印象派と呼ばれる画家で、一時期はモネやルノワールらと共に活動していた。しかし、何故彼だけが特別なのか。そのヒントは今回の絵の中にある。
セザンヌはブルジョワの裕福な家庭に育った。厳格な父の過剰な教育によってしつけられたせいか、彼は没するまで「人嫌い」となった。そんな彼にとっての転機は、印象派との出会いだ。
後に巨匠となる新進気鋭の画家たちと、「時間と光の移ろい」をひたすらに描き続けた。輪郭をぼかしながら「時間と光による変化そのもの」を描く、印象派特有の目線である。
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しかし、彼は次第に疑問に思う。「いくら時間や光が対象(物)に変化をもたらすからといって、あまりにも対象(物)を曖昧にぼやかして描いてはいないか?」セザンヌが言うその曖昧さとは、物が一体何であるか判別しにくいほど過度なものであった。モネの睡蓮などを見れば一目瞭然である。
これが不服の意に示されると、セザンヌは印象派とはきっぱり決別した。ここから彼の画風は一変するのである。物を物として確固たる輪郭線で描き切る。そうすることによって、それぞれの物としての存在感を際立たせるのだ。
セザンヌを語る上で重要なのはここからである。
今回の絵『台所のテーブル』に、観る者は漠然とした違和感を覚える。というのも、彼は自身の絵にあるアイディアを投入したからだ。
それが最もわかりやすく表されているのは、「水瓶」の丸い口の部分。これら静物を見ている視線の角度からでは、口部分は明らかに「丸く見えるはずはない」のである。言うなれば、口だけがこちらを向いているように見えてしまう、そんな風に描かれている。
それは何故なのか。彼のアイディアとはテーブル、リンゴや水瓶など、ひとつひとつの対象を描く度に、自らの視線を移動して別角度から物を捉えて、それをそのまま絵の中に描いてしまうことだった。
水瓶の場合、「口の部分だけを上から観ながら」描き込んでしまったことがわかる。
もうひとつ。テーブルの位置である。クロスに覆われているため、左端と右端しか見えないが、ここにも違和感がある。おそらく対象物や背景とのバランスからテーブルは斜めに置かれている様子だが、テーブルの輪郭として描かれる線は、左右どちらとも「斜めではなく水平なのである」。
これが意味するのは「遠近法の無視・脱却」であった。
ピカソら後の現代絵画の天才たちが衝撃を受けたのはここだった。
中世ルネサンス(1500年頃~)から続いてきた、自然をありのままに捉える唯一の手法、遠近法を明らかな形で無視したのである。
それはつまり、「自然や物をありのままには描かず、自分独自の解釈や手法で描いてもよい。それが次世代の絵画の在るべき姿である」というメッセージを内包していた。
セザンヌは面白い試みをしたものの、本当に現代絵画を今のような形にまで変えたくて、これらの絵画を後世に伝えたのかは定かではない。偶然思いついたアイディアを実行しただけかもしれない。
しかし、この絵の持つ意味を独自の解釈で読み取った若き画家たちは、結果として歴史を変えた。
マティスの色彩美であったり、レジェの遠近法を全く無視した描き方であったり、そして何よりピカソらの「キュビズム」に続いて行くのである。
『ダンスⅠ』(1909年) マティス作
『赤い鶏と青い空』(1953年) レジェ作
『家と木』(1908年) ブラック作
要するに「絵画革命の火付け役」となったわけだ。
以上が、セザンヌが「現代絵画の父」と呼ばれるようになった由縁である。
自然や人を見たままにどこまでもリアルに描く、という風潮に異を唱えたのが印象派であるなら、セザンヌは「物(存在)のルールとは何なのか?」という投げかけを与えた。あちらこちらで「?」が呼応する1900年前後、この時代はまさに絵画にとっても激動の時代だったのである。
次回は、セザンヌに続いてピカソとブラックのキュビズムについて話をしたい。趣味の範囲での知識が招いた拙い文章ではあるが、お付き合いいただければと思う。
つづく。
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