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『出会い、"こんにちはクールベさん"』1854年 クールベ作
「私は、絵を始めたほとんど最初の時から、わが国(フランス)の数々の美術館にある最高の作品と肩を並べる絵を描いた」
ギュスターブ・クールベは自伝にはっきりと自賛を書き記している。
常識はずれな事ばかりをしてパリ画壇中の笑い者にされても、
「現在のフランスにおけるもっとも重要で唯一の画家は、私だ」
と周りに吹聴していたことも良く知られている。
傍若無人、過剰な自信家、激しやすく冷めやすく、引くほどナルシストで、権力と真っ向からぶつかりたがり・・・。
つまりはフランス革命後の時代における誰よりも人間たる人間。
現代のわれわれが、エゴ丸出しな彼の人臭さにむせ返り、鼻をつまみながら手で追い払いたくなりそうな・・・。
事実、その性格が災いして美術アカデミーと故郷オルナンの人々から名前が出る事すら忌み嫌われたちょうどその頃、おそらくは意気揚々とこの絵が描かれた。
モスグリーンの整った服装をした紳士の名前はアルフレド・ブリュイアス。
嫌われ者だったクールベを熱心に庇護した奇特な銀行家の跡取りだ。
彼が、従者を付き添わしてまで丁重に出迎えている大雑把な身なりの男こそが、クールベ。
その背中はそり返り、挨拶を率先するでもなくへりくだるでもなく、ただただ受け止めている。
絵のタイトルは、ブリュイアスのセリフとして「こんにちはクールベさん」なのである。
「やぁやぁブリュイアスさん、わざわざ迎えをご苦労」
クールベ目線だとこんなセリフなのだろう。
しかしふと立ち返ると、この絵を描いたのはクールベで、その描く資金を与えているパトロンはブリュイアスだ。
たちまちこのタイトルにも、画家のふてぶてしい態度にも違和感が生じる。
「どちらが下賤で、どちらが崇高か」
パトロンと画家、その関係を想像するにおいて、これほど視る者の神経を逆なでし、あるいは呆れさせる描き方ははたして良いものだろうか。
だが、クールベにとってこの位置関係こそが、「すべての画家の理想」で「私の現実」なのだと主張しているように思えてならない。
『絶望(自画像)』1943年
彼は突き詰めてアンチ権力社会の人である。
『出会い、"こんにちはクールベさん"』の一年後、パリ万国博覧会にて別の自信作を展示する事を主催側から拒否され憤慨する。
会場のすぐ近くに小屋を建て、そこを『クールベの作品展示会場』として設置した。
これが後に、世界初の「個展」となるわけだが、驚くことにこの挑戦的な催しを資金援助したのは何を隠そうブリュイアスであった(彼もまた徹して奇特である・・・)。
この個展のカタログの中で、クールベはこのように述べている。
「今の時代の風俗、思想、断面を私自身の目で見て翻訳すること、一言で言えば生きた芸術を作ること、これが私の『目的』である」
この文章には「レアリスム」という題がつけられており、世に言う「レアリスム宣言」として知られるが、美術の世界でレアリスムという観点が一般的に使われるようになったのはこの時からだと言われている。
その後、彼は別のアンチ権力活動の場として、パリコミューン(反政府運動団体)に参加したため反逆罪で逮捕、スイスへ亡命し二度とフランスに戻ることはなかった。
だが、彼が祖国に残した功績の偉大さを疑う余地はなく、彼がカタログに記した『目的』は成就されたに違いない。
純粋無垢なエゴを武器に、あらゆる権力に真っ向から立ち向かった結果、
彼の絵画作品と生き様は、最後には歴史的な意味を成したのである。
『クリスティーナの世界』1948年 ワイエス作
草原は孤独だ。脚の動かない私を誰も助けてくれない。
這って行くしかない。きっとやれるはず。
何十年かかるかわからないけど、私はきっとあの家に辿り着く。
ぼろぼろになった手でドアを開けて、ようやく大きな安息を得られる。
彼女の名前はクリスティーナ。小児麻痺で生まれつき脚が不自由だった。
誇り高い性格の彼女は、できるだけの事を自分一人の力でやり遂げようとした。
いつも家族の墓地まで地を這いながら時間をかけて行き来した。
当時高価だった車いすの寄付を死ぬまで拒み続けた。
後姿の彼女が見据える一軒家は、生涯暮らした場所だ。
この絵を研究する人は彼女のセカンドネームを取ってオルソンハウスと呼ぶ。
画家アンドリュー・ワイエスは別荘の隣人であるクリスティーナと姉を献身的に支える弟に会いにオルソンハウスをたびたび訪れた。
貧しい暮らしの中でハンディキャップと折り合いをつけながら生きる二人の逞しさに、ワイエスは崇拝ほどの気持ちを抱き、以後30年間彼女たちを描き続けた。
アメリカとは孤独な国である。時代が進むほどに人同士の繋がりが希薄になっていく事を国民誰もが肌に感じていた。
ホッパーは都市の孤独を描き、ワイエスは田舎の孤独を描いた。
ホーマーが漁村の人々が営む生命の局地的な孤独を描けば、ロックウェルは文化・人種の相違からくる孤独を描いてきた。
だが現状を嘆くだけで終わらず、彼らはその中で確かな生命力を見出してきた。
広大で過酷な大地を一から開拓して発展してきたアメリカ人のアイデンティティとして、それぞれの生活から強かさを浮き上がらせるのが彼ら写実主義者たちの使命だったのだ。
絵の中のクリスティーナは若い。だが、描かれた時の彼女の実年齢は55歳だ。
自らの努力で安息を手に入れたクリスティーナの旅路のスタート地点は、きっとこんな風景だったに違いない。
その背中は、途方にくれているようだ。あまりに遠く、あまりに残酷。
ただしワイエスは出会ってからの30年間で彼女がゴールに辿り着けることを知った。
一人の女性がついに家のドアを開けた瞬間をこの目で見ている画家だからこそ、それまでの険しい道程と若かりし彼女の後姿が描けたのだ。
彼女への壮大な生命賛美を、この絵に託した。
目の前に壁が立ちはだかっている人にこそ、この絵の持つフロンティア精神は語りかけてくるのである。
『夏の日々』(1936) オキーフ作
1970年はジョージア・オキーフにとって、一つの大きな波がうねる年だった。
すでに80歳を超え、画壇でも名声を得ていたオキーフの絵画展覧会が米ホイットニー美術館で開かれた。アメリカ東部では、実に25年ぶりの展覧である。
会場に並ぶ列は長蛇となり、観客動員数の記録を次々と塗り替えて行った。
その多くは孫の年ほどはなれた若者たちで、しかも女性であった。
しかし、最も驚いたのはオキーフ本人であったという。自分が期待していた反響をはるかに超え、人々から絶賛の声を聞かされる。
――というのも、当時のアメリカは女性解放運動がとても活発化していた時代でもあった。
雇用、教育、芸術といったさまざまな面で偏見と差別の目に晒されてきた女性の地位を向上する、女性運動家たちの主張がすこしずつ世の中に取り入れられ始めた時期……。
しかも偏見の目が特に厳しい画壇の中で、燦然と光り輝くオキーフの立場は、解放運動の宣伝シンボルとしては最高のモチーフだった。
≪若きオキーフ(写真家であり夫スティーグリッツによる)≫
まさにそのきっかけが70年の個展であったのだ。
兎にも角にも、オキーフはアメリカ人女性の神へと昇華した。
彼女の顔写真や名前を題材にした作品を発表する女性芸術家が後を絶たなかった。
テレビでは彼女の足跡をたどるドキュメンタリー番組が放送された。
ある女性ダンサーはオキーフにささげる舞踏を演じ、ある管弦楽団は彼女をたたえる曲を演奏した。
「女性の生きる理想」……そう崇められた。
しかしである。
肝心のオキーフはそうした風潮に全くの関心も寄せなかったのだ。女性の生き神になっても相変わらずニューメキシコ州という荒野の地で、動物の骨や花と向き合っていた。
「私の人生はナイフの刃の上を渡るようなものでした」というように、彼女もまた画家になるまで苦難の連続を乗り越えてきた。若かりし1900年代前半は、女性が絵画を勉強するだけで変人扱いされる時代である。
画家になることを時には諦め、しかし立ち上がり、なんとかして成功を収めた。
だが、彼女がそれでも女性解放論に目を向けないのは、おそらくは彼女が「今の集団運動とは違い、自分はもっと厳しい時代に独りきりで乗り越えてきた」という自負と、そして「女性である前に自分は芸術家である」という自らの主張を示したかったからなのだろうと言われている。
それが如実に表れているのが今回のような絵画だ。
「死よりも永遠なもの」と呼んで描き続けた動物の骨は、ニューメキシコの赤い丘陵の大地から浮かび上がり、灰色の雲空に静止する。
対して、何輪かの花は色鮮やかに咲き、うち一つがまだこれから成長することを暗示するように斜めに伸びている。
生と死の象徴と、両者を包み込む大自然。
彼女が表現する人間として、見続けたかったもの。それは男女差別に苛まれる姿や、女性解放運動の世相などではなく、自然の美しさそのものであったのかもしれない。
1970年はジョージア・オキーフにとって、一つの大きな波がうねる年だった。しかし、彼女の心に揺れ動くものはなく、いつになく凪いだ年であった……。
『風の花嫁』(1914年) オスカー・ココシュカ作
「どうか私の生涯の伴侶になって下さい」
若きココシュカは、年上の未亡人アルマ・マーラーへの手紙に熱烈なメッセージを送った。
しかし、彼の望みが叶うことはなかった。
出自の高いアルマには社会的地位があったからだ。
ココシュカとアルマは二人だけでイタリアへ旅行し、その間互いに愛し合った……そんな記録が残されている。
しかし、アルマにとっては一時の安らぎ程度のものでしかなかったのかもしれない。
おそらくはそれに気づいたココシュカの心の中には冷め冷めとした思いが募った事だろう。そんな最中に、この絵は描かれた。
女は満ち足りた様子でうっとり目を閉じている。しかし男の方はどうだろう。虚空をすえたまなざしを向け、表情はさめている。
小舟の上だろうか、海がうねり波頭を盛り上げている。嵐の夜のようだ。
暗い風と波にさらわれてしまったのはアルマの自分への思い、ココシュカは少なくともそう感じ取った。そうなると関係が破綻するのは早かった。
だが、人間関係とは裏腹に、激情と化した恋慕が壊れるのはとても難い。結局、彼の中で死ぬまでアルマへの思いが消えることはなかった。別の女性と結婚しても、真に愛していたのはアルマだけであった。
後年、結婚と離婚を何度か繰り返して余生を全うしたアルマの遺品から、ココシュカからの手紙があますことなく見つかった。大事に保管されていたという。
アルマは、本当にココシュカを愛していなかったのだろうか。「『風の花嫁』の彼女」は本当に彼女の真実の姿なのだろうか。
実際にココシュカが生涯の伴侶としたオルダ夫人は、ココシュカが亡くなった後に初めて『風の花嫁』を観た。もちろん、描かれているのが誰なのか、死ぬまで続いたココシュカの思い、諸処の事情を理解したうえである。
彼女はしばらく絵を観た後、ぽつりとつぶやいた。
「好きな絵ですわ」
『マンゴウ』(1996年) 小倉遊亀(おぐらゆき)作
「怠けていられない」
日本で最初の静物画を描いたと言われる偉大な女流画家は101歳の時、この絵を描いた。
夫を半世紀前に亡くし、養子として迎えた最愛の義息子を4年前に亡くし、失意の底に陥れられた画家は絵筆を置き、絵を描くことをやめた。
塞ぎこみ、ただ老いていく日常の中。それでも温かく取り囲む孫たちの懸命な働きかけによって小倉遊亀は101歳の画家としてこの世に再生した。
高齢のため、絵を描くのは一日2時間が限界。日に日に腐っていくマンゴーを何度も何度も取り変え、ようやく完成した静物画に彼女はサインの前に自分の年齢を描き込んだ。
「百一才 遊亀」・・・と。
この数字の重みは果てしない。
ドキュメンタリー映像の中で、小倉遊亀へインタビューアーが語りかける。
「先生は80年以上、絵をお描きになって。それでも現役でいらっしゃる」
100歳を超える画家は言葉に続いた。
「ええ、現役にもならないと思ってます」
「どうしてでしょう?」
「まだまだ・・・若造ですから」
しばらくの沈黙。最後にこうつぶやいた。
「いいお天気ね・・・」
2000年、このインタビューの3年後に画家は静かに目を閉じた。